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高尾 愛 自分が生きているこの地球上で起きることを、まるで自分のすぐ隣で起きているか のように身近に感じたい。 私は高校時代にこう思うようになりました。 世界史の授業が大好きだったこともあり、世界史の先生に「私は日本人であることに留まらず、地球人になるんだ。」とよく言っておりました。 また、大学受験のための小論文の練習の時に、国語の教師だった担任に小論文を褒められ、単純な私は新聞記者になりたいと思うようになりました。 大学入学後は、正直言いますと、今までにほとんどなかった劣等感を感じました。 私はずっと英語が好きで、得意としてきましたが、関西外国語大学へ入学し、英語のエキスパートも多く、自分はたいしたことないと思いました。 三回生の秋にアメリカのウエストバージニア大学に半年間、語学留学しました。 この時、学び得たものはとても大きな財産です。 ホームステイ先のホストマザーは、私の故郷の母と言えます。 帰国後はすぐに就職活動を始めました。志望は新聞記者。 無理だとはわかっていましたが、何でも良いだとか、他の職種では考えられませんでした。 今思えば、この時のこの私の考えが間違っていたのかもしれません。新聞社の試験にことごとく落ち続けました。 その年の夏の終わりごろに、剣道の道場の先輩が、(剣道を17年間しています。)私に青年海外協力隊の話を薦めました。 私は青年海外協力隊の存在は知っていましたが、剣道の職種があることは知らなかったので、外国で剣道を教えるなんて、なんて素敵なんだろうと、感激しました。 私は就職活動をやめ、すぐにその年の秋に受験しました。結果は二次試験で不合格でした。 卒業間近でしたが、それでも外国で剣道を教えたいと、あきらめきれなかったので、二度目の受験を決意し、卒業後しばらくはフリーターだと覚悟してホテルの配膳のアルバイトを始めました。 しかし、二度目の受験では、剣道の要請がなかったのです。問い合わせてみたとこ ろ、それでも受験できるとのことだったので、受験しました。 結果は、「登録者」と言って、合格ラインではありますが、要請がないため、要請が 出次第連絡します。と言う結果でした。その登録の期限は今年の5月20日です。 そんな中、焦る気持ちと、はがゆさで悩む毎日です。初めからそうでしたが、自分 がフリーターであることに屈辱を感じ、こんなはずではなかった、と思っております。 先に述べた新聞記者の夢は、あきらめたつもりでしたが、今からでもジャーナリス トの専門学校に行こうかと考える気持ちもどこかにあり、インターネットで学校を調 べていた頃、先日、「国際ジャーナリスト」という言葉で検索したら、IJCさんのホームページを見つけることができました。 このような経緯で今回、ご連絡させて頂きました。 いろいろと心変わりしておりますが、私は、視野を広く持ち、世界を舞台に生きる ことをモットーにしております。 地球人である自分は、どのよう人間であるかは、近い将来、必ず出会えると信じております。 経歴: 1982年6月14日生まれ。兵庫県尼崎市在住。 1998年 私立甲子園高等学校入学 剣道中心の学生生活でした。 2000年 全国高等学校選抜剣道大会団体出場(主将をしていました。) 2001年 私立甲子園学院高等学校卒業 (卒業生一名に贈られる高祖記念賞受賞) 2001年 関西外国語大学外国語学部英米語学科入学 2005年 関西外国語大学卒業 剣道四段・TOEIC650点 趣味:バイク(大型二輪)・乗馬・音楽鑑賞(洋楽ロック)
岩田 幸子 1970年10月、緑豊かな仙台市で生まれました。森の中にある市民プールで魚のようになって泳ぐことや、夏休みの夜は、読みかけの本が気になって、両親が寝静まった後こっそり起きあがっては、リビングで蝉が鳴き始める朝まで小説を読み耽るようなことが好きな女の子でした。 ピアノを習っていました。お決まりのバイエルやソナタはそっちのけで、何度も耳に入ってくる面白い音(デパートのテーマソングをメドレーでつなげたり、「おしん」の泣かせる場面のテーマの音色を自己流に再現するなど)を片っ端から即興でピアノで弾いては、完成すると友達にムリヤリ聞かせていました。また、小説と漫画をよく書きました。書くだけにとどまらず、定期的に友達に回しては強制的に「スゴイ」と言わしめていました。 そんな私が始めて味わった「嫉妬」は、二人の弟たちがアメリカン幼稚園に行った時のことでした。弟たちは「ダニー」だとか、「デイヴィッド」だとか、さも夢のある世界からの使節のような名前を幼稚園から授かったのです。意味も分らず歌いまくる弟たちのアメリカン・フォークソング。サンクスギビングやハロウウィーン、さらにはクリスマスパーティーの時はその「嫉妬」はボルテージに達しました。フランケンシュタインやドラキュラ伯爵に仮装したり、白雪姫の王子になっている彼らを直視することはできませんでした。それに引き換え私はといえば、ただ女の子だという理由で・・・「白百合幼稚園」。何という理不尽!地団駄踏んで悔しがりました(笑)。 そんな私に転機が訪れたのは小学5年生。ボストン帰りの駐在員の奥さん「阿部先生」が近所で英会話教室を開くと、不憫に思ったのでしょうか、すぐに母は私をそこに通わせました。私は、阿部先生を通して遥か遠くのアメリカに想いを寄せ始めました。阿部先生の息遣いさえもコピーしようと思いました。それから、洋画、ポップス、雑誌は私がアメリカ人になるための重要資料としてインプットされていきました。私はマドンナの口元とその仕草を、マイケル・ジャクソンの早口を、ブルック・シールズのインタビューの流れからその思考回路を真似ては何度も夢の中で繰り返しました。私はすぐにでもアメリカ人になる用意は出来ていたのです。 高校生になって間もなく、ある団体がアメリカへの留学生を募集する記事を掲示板で見かけました。両親に内緒で資料を取り寄せ、そして半ば強引にその試験受かったことがパスポートでもあるかのように、アメリカ行きを承諾させて、私はテキサス州の若夫婦のもとへ旅立ちました。 そこで待ちうけていた経験は、決して楽しいばかりの毎日だけではありませんでした。夢にまで見た初のアメリカ人家庭では、口座から僅かながら預金が引き出される事件が発覚。すぐにホストチェンジとなりました。二番目のリッチで優しい老夫婦は、とうの昔に終えたはずのティーンエイジャーの養育に関心を持ちチャレンジこそしてみたものの、水泳部の早朝練習の送り迎えや、所属のマーチングバンドの遠征活動に根をあげられ、まさかのリタイア。そして最後は、留学生などこれっぽっちも関心がない失業中の飲んだくれの父親と、 もと教師で厳しく敬虔なクリスチャンの母親に引き取られ、妹(ホストシスター)と二人でご飯と愛情の奪い合いを日課とする毎日を過ごしました。振り返れば、自分の存在と正当性を守るのは私自身しかいない、人生は自分で切り開くものだ、という概念が備わったのもこの家庭で暮らしたお陰だと思います。自分のことを分かってもらうためにあらゆる手段を投じて表現しました。方言や言いまわしとジェスチュア、服装やメイク、教会やパーティーへの参加・・・。こうして「生きる」ために同化に徹した1年間が過ぎた頃には、誰もが見まごう南部の淑女(?)「テキサス人」として成長しました。仙台に戻った時には、英語が出来るという範疇をゆうに飛び越え、アクセントもその情緒もまさにテキサス人と化していたのです。 16・17歳の多感な時期に実家を離れ、国を離れてこのような経験をしたことは私の宝となっています。もしその時期を、安全領域である実家という名の「まゆ」の中で守られ過ごしていたら、今気が付くことの半分も知らないで成長してしまったかもしれません。 アメリカでは、もの心がついた時から自分の好きなものは自分で選択をするように躾けられます。 高校に上がれば教科選択も自分で行います。いわばどんな風にその学期を過ごしたいのか、毎学期尋ねられるようなものです。毎朝学校に着くと生徒はまずロッカーに行き、先生が待つ教室にみずからおもむきます。これも自分の判断で履修した、という自覚と意志を表すこととつながるのではないでしょうか。このロッカーは、各自教室を持たない生徒同士のコミュニケーションが交わされる場所でもあり、友達同士待ち合わせをしたり、ラブレターやお花やチョコレートをそこに見つけたりすることもありました。 そうして私は仙台の高校に戻った 時点で、大学は東京に行くことを決めていました。「次に国外に出るときは、日本のことをもっと伝えられる大使になろう」。そして同時に、「日本の学校教育に選択と意志を、そして活気をもたらそう」と決め、国立東京学芸大学教育学部国際教育研究学科に入学しました。アメリカでの経験を是非伝えて生かしたい!楽しいことは黙っておけず、誰かに話したくてしょうがない性質は今も昔も変わりません。 ところが、日本の教育制度を変えるのだ!と息巻いて大学に入ったものの、専ら身を入れて勉強したのは何と「フランス語」でした。アメリ カに行った後そのルーツを探りたかったから、というのは表向きの理由ですが、本当はフランス語を教える日本人の先生に相当な熱を上げていたからでした。クラスで一番になれば先生に振り向いてもらえるんじゃないかしら・・・?そう思った私の空想は果てしなく広がって行きました。いつ聴かせることが出来るかわからない先生に捧げるドビュッシーのピアノ曲を、夜ごと大学のピアノ室に忍び込んでは朝まで練習したり、3ヶ月もある夏休みには単独で4週間、ニース大学のサマースクールに通ってマナーと言語を叩き込み、ぶっちぎりの一位を狙 ったりしました。またそこで知り合ったパリに住む日本人が休暇で家を空けるから、ということでその後パリにも1ヶ月住み、先生との生活はどんなものかしら?と勝手に想像してみたりもしました。結局先生との恋はプラトニックで終わりましたが、それだけ熱を入れたフランス語とその文化の習得は、フランスへの国費留学というチャンスを私にオマケしてくれました。動機はいささか不純でしたが、私は地中海を見下ろすニースで太陽とワインと、海と人の間に漬かって暮らしました。昼間はそれこそ言葉のハンデがあるので集中して勉強しましたが 、週末はパーティーに明け暮れました。地元の学生だけではなく、北欧や東ヨーロッパ、他のラテンの国々やアルジェリア、モロッコなどの北アフリカ、はたまた台湾や韓国からの学生たちと何十本ものワインボトルを次々に空にしていきました。それまで外国と言えばアメリカしかデータベースになかった私は世界には、他にもたくさんの基準と視点があることを知ったのです。 こうして「世界の住人」になることに味をしめた私は、いつでもまた世界に飛び立てるようにセンスを磨いていよう、と大学卒業と同時に外資系企業に入りました。ところが、たとえ外資系企業、外国人の社員が90%を占めていたとしても会社は会社。秘書として採用になった私に求められていたのは「センス」どころか、名前や顔、個性もない「one of the girls」、ソツなく業務をこなす秘書マシーンでした(と、当時は思っていました)。何だかガッカリでした。個性とかイニシアティブとか、これまで外国で教えてもらったものはここでは何の価値もなく、秘書の仕事に関しても使えるアイディアなどこれっぽっちも思いつきませんでした。 失意と落胆の中で過ごしていた毎日でしたが、楽しみにしている日課がありました。それはできるだけ早く仕事を抜け出し、スポーツ・ジムのエアロビクスのクラスに出ること。そこで体感するワクワクの連続に比べれば日常のどんな怠惰もひれ伏しました。自称「週8日ジム通い」(それは無い!)とも豪語していました。そして大好きなインストラクターもいました。小麦色の肌にショートヘア、音楽がリズムを着て遊んでいるような彼女とエアロビクス、フィットネスの世界に出会って「美しさ」という定義に幅が生まれました。強くて、しなやかで、健全な肉体。自立した、自発的な、主張するからだ。自分の体(己)に責任を持つ・・・それが凛とした美しさを作る、と理解するようになりました。やがて自分にとってこんなに楽しいことを知っているのに、何故楽しくないことに多くの時間を割いている のだろう・・・と思い始めました。好きなことを仕事にしている偶然にも同い年のインストラクターは、私にはキラッキラして映りました。輝いているのは、大好きなことをしているから・・・それだけで接する側の私は意識が高まります。・・・よし決めた!スーツにヒールを脱ぎ捨てました。果たして私はインストラクター養成学校の門を叩くこととなったのでした。 丁度同じ頃、私は英語学校の講師もするチャンスに恵まれました。大学生からビジネスマン、OLである生徒さんを前に外国人講師と2人編成で英会話やTOEICを教えました。 インストラクターと英語講師を同時にしている。それは文武両道とでもいうのでしょうか、何だか自分ではバランスのとれた理想的な毎日を送っている感じがしました。 エアロビクスのインストラクターも英語講師も共通するところがありました。それは人前に出てサービスを提供する、ということです。また、どちらも人気でフィー(報酬)が決まりました。さらに、体を張った(か?)アクションのある英語クラスや、バイリンガル風味が程よくきいた表現豊かなエアロビクス・レッスンができるなど、双方に相乗効果をもたらしました。もはや、 私の頭は面白おかしく見せ場を作る「ネタ作り」で一杯になっていました。クラスの参加者がどれだけモチベーションを高め、どれほど楽しく成果を上げられるか?そのために私は何が出来るか?どんな工夫が出来るのか?先生というよりはパフォーマーに近かったのでしょう。英語講師は半年でティーチャーズランキング・ベスト3入りを果たし、入ったその年度末には「カリスマ・ティーチャー賞」を取りました。またインストラクターでも、新人ながらネットで紹介される機会がありました。 私はますますエスカレートしていきました。やがて、 何だか一方的に作りあげた観衆を前に一人芝居をしているようになりました。しかも華やかな表舞台とは裏腹に、台本作りや衣装縫い、もしくはノー・メイクや泣き顔のバック・ステージは決して見せられないし、友達にさえも打ち明けられない、とまで思ってきたのです。重度の「エエカッコシイ」病にかかっていました。 もはやあんなに好きだった「舞台」も苦痛となって来ました。「・・・もう、ネタがない」。授業やレッスンの日まで必死でネタを絞り出そうとするその様は、「つるの恩返し」のようでした。どうか見ないでおくんなまし、と 裏で一本一本羽根を抜いては丹精込めて反ものに織り込み、ふすまを開けたら人間の姿に変わってハイ贈りものでございます・・・とあたかも私は一人でおツウになりきっているようでした。 ところが、丁寧に教えれば教えるほど、貴重な情報は生徒の耳をいたずらにただ通り過ぎていくような感じがしました。奇抜なパフォーマンスや周到すぎるサービスも、労力をかけた割には空回りしているようでした。人気も下降気味の私は、燃え尽きる直前でした。ランキングや賞、集客もある時期から華々しい昇給に結びつかないことも不満でした。かねてからまとまった時間ができるとすぐさま近くのアジアの国々に出かけ、その圧倒される程のエネルギーをチャージして帰って来るのが心地よい慣例のようになっていた私でしたが、これらの仕事に就いてからというもの、「逃亡」するまでの期間がどんどん短くなって行ったのです。 「ダメだ、このままではエネルギーが吸い取られる・・・一人芝居には限界があるのか」 そんな2002年の春先、「いつも『いいこと』が起きる人の習慣」(トマス・レナード著、堀紘一訳)を読みました。「コーチング」という言葉を初めて目にしたのです。コ レだ!と思ったのは、相手の話を聞き、そこから相手の強み引き出し、そして相手オリジナルのゴールに導く・・・というところでした。自発性を養うという点も多いに気に入りました。そうか、私が陥っていたのは「私だけが喋りすぎる」ことにあったんだ!これは大発見でした。確かにその頃の私はプライベートでも、面白いことのひとつやふたつでも言わなくちゃ愛されない(?)、と半ば強迫観念にとらわれているようでもありました。 それからというもの、レッスン中私が話す時間を短くすることによって、疲れない自分を持続する。エネルギーレベルを安定させると、客観性を失わずに相手が良く見える。ニュートラルに位置すると、相手は話すしよく聞こえもする。するとどうでしょう、相手が自分で動くではありませんか!別の意味で参加型の活発なクラスになったのです。何だ・・・手取り足取りサービスしてあげることだけが良い指導者じゃないんだ・・・。それって私がやってあげたいことで、実は相手がやってもらいたいことは別のものなのかもしれない、こうして聞いてあげることこそ相手が一番望んでいることなのかも・・・。そして同時に、間違ったところを正すことより出来ているところを大絶賛しようと思いました。 このアプローチは絶大なる効果を発揮しました。やるしかない!金鉱を掘り当てたかのような確かな感触を手にした私は、2年間務めた英語学校での講師を辞め、自宅での個人レッスンに切り替えました。時間を作りコーチングの勉強を本気で始めると同時に、私自身のためにコーチを雇いました。一時的とはいえ、8万5千円だったその月の収入の中から私は月2万円でコーチと契約したのです。ちなみに家賃は7万3千円です。すでに「赤」の極貧きわまりない生活苦でしたが、私は真剣でした。お茶やバイオリンを習うのとは明らかに違う、本気で生きるための自分への投資でした。するとどうでしょう、コーチングのクライアント契約がとれ始め、さらにはコーチングベースの英会話クラスを開発し、3ヶ月後には収入は3倍となっていました。 2002年10月にコーチングの学習を始めから8ヶ月後の2003年6月には、生涯学習開発財団認定コーチを最短で獲得することができました。この合格は、好きなものを追い求めた私と、それを支援してくれた家族と友達、コーチそしてクライアントの皆さんのお陰だと心から感謝しています。その後もコーチングは学びの場が偏らないように、色々なところにアンテナを張っていました。すると、あるセミナーでお知り合いになった会社経営者の方からのオファーで今年の9月、通訳としてモンゴルでのお仕事に同行させて頂くことになったのです。日本人とよく似た顔立ちにハッと目を奪われるほどの澄んだ瞳の色が印象的な人々の住むモンゴルでも、短期間の滞在とはいえ仕事の枠を超えた素晴らしい友人を作って帰る幸運に恵まれました。また、英語学校の講師仲間だった元同僚の発案で10月から11月にかけてのマレーシア取材に企画・制 作の両面で参加しました。ここでは一ヶ月間ほぼ一人旅でしたが、不思議なことに一人でご飯を食べた記憶があまりありません。また、本来ならばタクシーを使うような場所に行くときでさえも、たくさんの地元の方やすでに住んでいる日本の方が車やバイクの後ろ、トラックやバンを快く提供してくれました。その何気ない差出し方も皆さん本当に自然で素敵です。どんなにたくさんの温かい贈り物を頂いたか数え切れないくらいくらいです。その感覚は今思い出しても胸が熱くなります。 こういった流れと勢いを受けて、今度は自分自身でプロジェクトを手がけようと思ったのです。題して、「地球の住人」プロジェクト。その第一弾として「定年退職後に海外で自由に暮らそう計画」を打ちたてました。定年退職を機に、会社や子育てから開放されたご夫婦が海外でも自由にのびのびと、新しい空間で暮らしたいという希望が増えています。パック旅行の延長のような既製品に自分を合わせるのではなく、全くの自分オリジナルなライフスタイルを日本のみならず枠を超えて世界にも持とう、選択肢を多く持とう!という考えです。選択すること、行動すること、そしてそれに満足すること、その連続 にワクワクすること、夢を持つことは素晴らしいことだと思います。ほんの少しの勇気で今までは出来なかったと諦めていたことが実現できたらどんなに素敵なことでしょうか!また私一人で出来ないことは、外にもどんどんリクエストをして助けを求めたいと思います。不動産や資産運用に関しては、その分野の専門家、専門コーチの助けを借りてセミナーやワークショップを開く予定です。 好きな場所が世界中にたくさんある、いくつかの場所には住んでみる、そして友達がいる、知り合いがいる、と自分がその絵の中にいることをほんの少し想像しただけでも勇気が湧いてくるような感じがします。恥ずかしながら、あなたの夢は何ですか?と問われれば、自分の選択で、いつ、どこにでも住む、日本にも来る。電話ひとつで、好きなときに好きな友達に会いに、どこへでも飛んで行くような生活を送りたい、と私は答えています。 「私のプロフィール」を丁寧にお読み頂きありがとうございました。さて、あなたはどんな夢をお持ちですか? 略歴 : 1970年仙台生まれ。高校時代にアメリカ・テキサス州に交換留学生として1年間、大学時代、フランス・ニース市ニース大 学文学部人文学科に国費留学生として1年半それぞれを過ごす。国立東京学芸大学教育学部国際教育研究学科卒。外資系コンサルテティング会社グループセクレタリー、外資系製造業フランス人副社長付秘書、農林水産省政策情報センターリサーチャー兼翻訳者、専門学校英語講師、エアロビクス・インストラクター、セミナー会社営業を現在に至る。2004年1月「地球の住人」プロジェクトを立ち上げる。英検・仏検準1級、TOEIC885点。好きな映画:「恋人達の予感」「リアリティバイツ」「グレート・ブルー(英語バージョン)」「二人のベロニカ」 「エリン・ブロコビッチ」 好きな音楽:バッハ、ドビュッシー、ラヴェル、テクノ、トランス